縁起

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寛平七年(895)
第59代宇多天皇様の勅命により、益信僧正(本覚大師)様が、初代の住職となり、七堂伽藍の具わった古刹を建立したのがおこりである。
のち、兵火天災等の為、一衰一興する。
花園天皇様の御代に、足利義政が、堂舎を修補し、中興開基の實雄僧正と共に寺門を興隆し、法流神照寺流を創始する。(寺運の隆盛、三百余坊の堂舎。寺門盛観を極める)
観応二年(1352)
9月下旬、足利尊氏公と実弟直義との和解の為、11月2日浅井郡錦織興福寺にて兄弟対面ののち、神照寺に仮泊して帰る。(このとき尊氏公が境内に萩を植えたと伝わる。)
貞治年間
住僧菩提坊隆信本堂を再建企画。新造するが、天災にて消失
康暦二年(1381)
隆信本堂を再建(京都嵯峨天龍寺より、本尊を迎える)
入佛落慶は30年後(応永17年2月5日)執行。
大永三年(1523)
京極氏の陣所となり兵火で山内が荒廃、焼失した。
のちに、浅井氏が旧観通りに再建、天文年間(1533~1554)に浅井家が中心となり正月三日に新年茶会を催していた。
元亀元年(1570)
姉川の戦いによる兵火で焼失した。
天正元年(1573)
小谷城の落城と共に兵火に遭い一時衰退した。
天正十一年(1583)
秀吉公が天下を統一すると、安堵状を頂き伽藍の大改修を行った。
徳川の時代に朱印状を賜った
天阿上人が京都の愛染寺より住職となり、寺運の興隆に尽くした。
醍醐寺の末寺となる(真言宗醍醐派)
明治時代中ごろ智山派に転派して今に至る
かつては神照寺流という雅楽の吹奏があり、毎年3月15日の涅槃会に吹奏されていた。